イベントで写真資料「被爆者」を配布

 モバーダ・ふォイーロ(活動見本市)と称したイベントは、世界中の活動団体が夫々自分の活動の報告やアピールをして、大会参加者や見学の地域住民と交流する催しである。
 私は、今回の世界大会のスローズンに共鳴して個人で発案し、イベントに参加したので、参加にあたって日本の関係者Tさんに指導を受け、コピー作成についての著作権使用の許可も、関係者から全て取った。

 イベント開催の時間が不明なまま15時を過ぎると、午後から少しずつ曇りかちだった空は暗くなり小雨が降り始めた。大会本部前の通路(コンクリート打ちの渡り廊下)でイベントが開催されると聞いたが、開催時間は不明のまま、まだ準備に掛かっている実行委員の姿は見えなかった。J氏と昨晩約束したとおり、17時までには印刷物を受け取ることになっていたが、16時半過ぎると雨は少し激しくなり風も出てきた。

 小降りだか大粒の雨の中、会場から少し離れた道路に停車していたJ氏の車まで印刷物を取りに行き、二人で250部ずつの紙袋を抱えて本部前に戻ると、資料配布の協力者で日本人のK氏から、既にイベントは開始されているとの知らせを受けた。

 k氏と二人で指定されたテーブルを探して通路を急いだ。するとJEI(日本エスペラント学会)のブースの横のテーブルが、私達の場所だとわかった。

 荷解きをしてテーブルの上に印刷物を並べ、受け取った人たちの国を把握するため、ノートを開いて急いで国名を書き配布を始めた。受取国名を調べたのは、次の理由からだった。

 この写真資料の発行元は「日本被爆者団体協議会(日本被団協)」で、その許可を得てエスペラント団体「リブロ・トキーオ」がエス語に訳し、英語訳とイタリア語訳を加えて発行していた。
 私の計画は、この小冊子(写真入)をコピー増刷し会場で配布することだった。それで日本被団協から、配布する主審と、どこの国の人々が受け取ったのか、またその反響について、報せて欲しいという要望を、日本を出発する前に受けていたのだ。

 「センパーガ・ドナーツォ(無料贈呈品)」だと声高に歩いている人へ呼びかけて手渡した。K氏の口からほと走り出る、簡単な外国語の挨拶は、ドイツ語・フランス語・イタリア語・ロシア語等など。その巧みな呼びかけに立ち止まる人も多く「被爆者は米国へ講義をしているのではなく、核兵器の廃絶を心から願っています」と説明を加えて配布した。2時間ほどのイベントで約350部の配布に成功した。帰国後日本被団協へ次のような報告をした。
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受取り者の感想:
 ・多くの人は広島・長崎が被爆したとを知っていた。
 ・一瞬にして街がなくなったのは、本当かと訊ねる人がかなりいた。
 ・被爆の影響は未だ続いているのか訊ねる人がかなりいた。
 ・被爆の影響が三世代に及んでいることには驚いていた。
 ・友人にも見せたいと、数部受け取る人もいた。
受け取り者情報:34カ国、299名(当方でノートに記録出来た数)。
当事者(私)の感想:
 ・写真と解説文(エス語、英語、イタリア語)で、被爆の実情を伝えることが出来た。
 ・被爆者はアメリカの告発をしているのではなく、核兵器廃絶と戦争禁止と平和を願っていることを話した。
 ・現地ポーランドの人が多く(111部)受け取ってくれたが、アウシュビッツの悲劇とともに記憶に残してくれるだろう。
 ・多くの国の人々が集まるところでは、世界共通語エスペラントの利用価値が大きいことを改めて認識した。
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 約50部をエスペラント訳発行者のリプロテーコ・トキーオヘ贈呈し、残りの100部は、現地のエスペラント組織を通してビアリストック市へ寄贈し、学校へ配布してくれるように依頼した。

 大会新聞の記者が取材に来て「通常はどんな活動をしているのか」と私に尋ねた。私は「大会スローガンの趣旨に共鳴して、今回の活動をした者で、何時もこの活動をしている者ではない」と返事したら、どうも良く理解してもらえなかったようで、残念ながら大会新聞には載らなかった。

 この配布計画を思い立ったキッカケのひとつは、2009年の4月時点の数ヶ月前、テレビのプログラムで放送されたドキュメントに、日本被団協の人たちが5〜6名のグループで、国連をはじめとして世界の国々を訪問し、核兵器廃絶の訴えをしている報告を偶然観たことだった。世界エスペラント大会こそ、その最も適した場所だと私は感じた。こうして、膨大な計画が私ひとりの手で実施された。