M氏の支援

[「列車予約に失敗」から先に読んでください。]
 ボルドー駅(フランス)には受入者のM氏が迎えに来てくれていた。私は彼の顔を知らないのだが、彼は私のブログで顔写真を見ている。パリでの切符購入について彼に事情を話し窓口で調整してもらった。実は切符代を余計(二人分)取られていたのだ。エスぺランチストの仲間が同伴していたのだっだが。うまく対処出来なかったのには、後で残念に思うしかなかった。

 多分外国からの訪問者を何度も受け入れたからだろうが、彼はこの土地では有名人らしく、いろいろと私のために便宜を図ってくれたのにはありがたかった。

 ここでもマドリッド(スペイン)への座席指定券は予定(27日)の切符を買えず、以降の日程が決まっているため、出発日を一日前に変更(26日)しなければならなかった。この変更が思わぬ事件を引き起こすとは、全く想像もしていなかったし、うかつだった。

 ボルドー駅の近くの路上に止めていた彼の車の後部に、旅行カバンとリュックを押し込み、上に厚手の少し汚れたカバーをかけ、外から見えないようにした。盗難が心配だと言うと、電子ロックをしたので大丈夫だと言う。人通りの少ないこの道路には、やはり数珠つなぎに自動車が何十台も駐車していた。車の中の私の貴重な荷物が盗まれはしないかと、観光が終わるまで気が気ではなかった。もし盗まれたら2ヵ月間の旅行が全て消えてなくなる。

 彼の案内で街を2時間ほど観光することとなった。天気は良すぎるほどで日差しも暑く、半そで半ズボンの人たちが多かった。半ズボンの彼は私に半ズボンを持ってきていないのかと訊ねるほどだった。街の広場ではジュースやビールやアイスクリームを楽しんでいる人たちが沢山休憩していた。道路には外国からの旅行者も多数見られた。滴り落ちる汗をズボンのベルトに挟んだお絞りタオルで時折拭いながら観光を続けた。

 大きな噴水広場には、ブロンズ像の彫刻があり歴史を感じさせた。小さな映画館を覗くと、彼は若い頃、この映画館に革新的なフイルムを取り寄せ頻繁に上映したという。彼はこの地方の革命家(活動者)で、今でも革新的な活動をしているようだった。

 街の中をモダンな電車が走っていた。勿論彼と一緒に乗り込んで、少し離れた場所まで移動した。17時前になったので彼の車で家に戻った。止めていた車に異常が無かったのでほっと胸をなでおろした。

 途中の道路の大半はコンクリート舗装ではなく、アスファルト舗装と一部舗装なしの箇所もあった。運転に慣れている彼は結構なスピードで車を走らせた。フランスを始め外国の殆どは、日本と逆の通行規則で、ここでは自動車は右側通行である。そのため信号が少ないのは良いが、なれない私は助手席でかなり戸惑った。

 家に戻ると彼の奥さんと互いにエスペラント語で挨拶し、改装された洒落た屋根裏部屋を、私に使わせてくれた。想像しなかった脚の痙攣は、街中を2時間も歩いている時は何とも無かった。屋根裏部屋への階段は狭くて急で60度は傾いていた。
 寝るのは1階のソファで良いからと何度か彼に言ったが、67歳の私をソファには寝かせられないと、彼は旅行カバンをさげて階段を上った。それでもカバンを持ち上げるなり「こりぁあ重い」と一言いった。

 広い庭に置いてある大きなプラスチック製の白いテーブルで夕食をした。果物、チーズ、3種類のパン、サラダ、勿論ワインもビールも出た。
 たまたま1日前から滞在していたポルトガル在住の若者2人も一緒に食事した。彼らはフランス語を話す。それで若者たちはM氏のことを先生と読んでいた。親類ではないが知人の紹介だという若者たちを、時々M氏は無償で滞在させているという。

 食事の話題は勿論私の旅行についてだったが、それ以外に日本文化や、日本人の考え方についても話題になった。エスペラント語の重要性や有益性について、M氏と私とのエス語会話は、十二分に2人の若者に強い印象を与えた。私が日本語とエスペラント語以外はどこの国語も話せないのに、10カ国18人の仲間を訪ねて廻り、M氏とも初めて今日会ったばかりだと話し、2ヵ月間の旅行を始めたことに2人は驚いていた。
 20時を過ぎると気温が下がり、私は準備していたセーターを着た。シャワーを使って22時には寝室へ引き上げたが、ベッドの上で脚を伸ばすと、やはり右脚の痙攣は起こった。ゆっくりとマッサージをし,湿布薬を貼り付けた。立ち上がっているときは何ともないのに、身体を横にして背伸びをしたりすると痛みが起こる。厄介なことだ。それでも疲れていたのか眠りについた。