ソウルから福岡へ

Plano: 〔de Seulo (Koreio) <KE781> (18:30) al Fukuoka (Japanio) (19:50)〕
Realo: 〔de Seulo (Koreio) <KE781> (18:30) al Fukuoka (Japanio) (19:50)〕
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 食事を済ませてゆっくり休憩し、17時半になると、搭乗ゲート前のソファに移動した。飛行機は定刻に飛び立ち、福岡国際空港に20時近くに到着した。自宅へ電話をかけて、弟に自家用車で迎えに来てもらい、ついに私の長い旅行は無事終了した。

 67歳の初老の男が、暑い夏の2ヵ月間をヨーロッパの国々で過ごしたこの経験は、私の人生で最大の出来事であり冒険でもあった。このような長い旅行に、一人で出かけることは、将来おそらくないだろう。

 今回の経験を生かして、日本へやって来るエスペランチストたちを、私の出来る範囲で温かく迎える仕事が、これから始まることになる。そのための受け入れ準備もしなければならない。

ソウル空港

 ドゴール空港(パリ、フランス)を飛び立って約11時間後に、インチョン空港(ソウル、韓国)へ20日の15時近くに到着した。
 この空港から福岡へ向けて飛び立つ時間は18時半、なんと5時間ほど自由な時間があった。

 乗り換えフロアへ行く通路に並んだ幾つもの免税店を覗きながら進むと、15台ほどパソコンを並べたエリアがあり、数人がパソコンを使用していた。
 その横に、ジュースやコーヒー等を売っているカウンターがあったので、「何か飲み物を買わないとパソコンは使えないのか」と尋ねてみた。すると「ここはサービスフロアなので自由に使って良い」と男性店員が教えてくれた。

 それで、約2時間ブログに旅行記録を書き込むことにした。幸い日本語文字も画面に現れ、こんなサービスが空港内にあるとは全く知らなかったので、日本の成田空港や羽田空港などにも、これと同じようなフロアがあるのだろうかと思った。

 ここソウル(韓国)の免税店で日本円や米ドルが使えるのは知っていたが、ユーロが通用するのか時計店で聞いてみた。
 若い女性店員は即答出来ず、私を待たせて上司のところへ聞きに行った。やがて中年の女性がやってきて、ユーロも使用できると言うので、「20万ウォンの時計は、ユーロで幾らになるのか」と尋ねると、しばらく電卓を操作していたが、約1万ユーロだと言う返事が返ってきました。

 韓国の貨幣ウォンは日本円にすると約10分の1の価値になり、日本円をユーロにすると2桁小さくならなければならない筈だ。単純計算でも200ユーロ以下だと思ったので、計算が全く違うのには驚かされた。勿論購入などする予定もなかった。

 待ち時間が十分あるので、食堂で何か食べることにした。乗り換えフロアの端の階段を少し上がると、食堂のフロアが細長くて広い食堂があった。

 食券を買うシステムで、入口で注文し代金を払うと、その場で注文を厨房へ通報する端末機を操作し、料理が出来上がるとベルが鳴る小さな計器を受け取った。

 若い女性店員がいたが、支払いはウォンでも、日本円でも、米ドルでも、ユーロでも、どれでも良いと言うのには驚いた。
 免税店の店員とは大違いだ。石焼きビビンバを注文し、ウォンは持たないので日本円で支払うと言えば、直ぐに電卓を操作して正しい料金を教えてくれた。その手際の良さに感心した。

搭乗手続き

Plano: 〔de Paris (Francio) <KE902> (21:00) al Seulo (Koreio) (14:55)〕
Realo: 〔de Paris (Francio) <KE902> (21:00) al Seulo (Koreio) (14:55)〕
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 やっと搭乗手続きの時間がきた。重量オーバーではないかと心配していた旅行カバンの重さは21.9kg、問題なく預けることが出来た。

 財布に残ったユーロで、お土産を何か買おうと菓子店に入り、ビスケットとチョコレート、姪のためにファション誌を一冊買った。

 飛行機に乗ってしまえば、明日(20日)ソウル空港で食事をするのに使うのは、日本円で十分だと思った。

 2ヵ月前にパリへ来たときは、飛行機の中に空き座席は見つからなかったのに、今日はパラパラと空き座席がある。それでも近くに座っている人たちの多くは韓国人だった。

足早の旅行の思い出

 休憩しながら思い出していたのは、この2ヵ月間の足早の旅だった。出発までに、一度も会ったことのない人たちが、世界共通語エスペラントを、お互いに話す仲間だと言うただそれだけで、親戚の一人が遊びに来たかのように受け入れてくれたことを、心から感謝せずにはいられなかった、というのが本当の気持ちだ。

 そして、この言葉の創始者ザメンホフ博士が生涯を掛けた、偉大なる「共通語による平和へんお挑戦」に、あらためて心から尊敬の念を抱かざるを得なかった。

 日本からやってきた痩せた老人エスペランチストの私は、きっといろいろ迷惑を掛けたことも有ったはずだ。
 ボルドー(フランス)では、夜間に仕事の緊急呼び出しで急がしく仕事場へ出かけた男性と奥さん。
 コンテ(フランス)では、私の訪問に合わせて夏休みをとってくれていた夫妻。
 ローザンヌ(スイス)では、数日後に長期旅行をするというのに、泊めてくれた家族。
 モリネーラ(イタリア)では、仕事の合間に観光をさせてくれた家族。
 ブタペスト(ハンガリー)では、忙しい花屋の卸仕事の合間に世話をしてくれた家族。
 ビドゴシチ(ポーランド)では、「HIBAKUSHA」の印刷を請負い、1週間休業して受け入れてくれた夫妻。
 アムステルダム(オランダ)では、手術後にもかかわらず泊めてくれ、二歳の少女と、まだ3ヶ月の赤ちゃんのいる若夫婦。
 ブリュッセル(ベルギー)では、納入間近の作品仕上げの手を止めて受け入れてくれた彫刻家と奥さん。
 最後のパリ(フランス)では、今秋に結婚して、新婚旅行に日本へ行く計画を持ち、沢山のエスペラント仲間に会わせてくれたり、一日自由な時間を私にくれた若い二人。

 私は殆ど土産物を持って行かなかった。と言うよりはカバンに入らず持って行けなかったのが事実だった。それでも軽くて日本を伝えられる物が良いだろうと、センス、日本語の文字が書かれた小型タペストリー、尺八や野鳥の鳴き声や童謡が収録されているCD、羊かん、にわか煎餅などは、少しだけ記念になったかもしれないと思い出していた。

ドゴール空港で休憩

 搭乗手続きは出発の1時間ほど前でないと出来ないのは、日本と同じようだった。まだ12時少し前で、昼食をする気分にはならなかったので、コーヒー等が飲めるフロア・レストランの大きなソファをひとり占めにして腰を下ろし、ゆっくり休憩することにしました。

 近くを通る人を眺めていたり、軽食にやってくる旅行客を眺めるのも結構楽しいものだった。

 周囲にスタンド式の有料パソコンが見つかったので、旅行カバンを押しながら歩いて行き、パソコンを使えるか試してみまた。
 30分間使用するのに2ユーロ、街中に比べると少し高いが、画面には日本語の文字も出たので、ブログに旅行の記録を書き込むことにした。

 1時間半ほどパソコンを使用して、またフロア・レストランへ戻り、サンドイッチ風のパンとオレンジジュースを買って食べた。特にどこかを見たいという気分でもなかったので、靴を脱いでソファの上に足を投げ出し、ゆっくりと時間が流れるままに休憩した。

アパートを出てドゴール空港へ

 私の飛行機は夜9時にドゴール空港を飛び立つ予定だ。出発まで時間がたっぷりあるので、どこか見物するといい、とT氏は助言してくれだか、空港で休憩するほうが楽だと、アパートから直接空港を目指して出発することにした。

 朝から仕事に出かけるT氏の婚約者に、お礼とお別れの言葉を述べ、元気で日本へ来るように挨拶した。T氏も10時頃には仕事に出かける。

 私がドゴール空港へ行くためのバス路線を、昨夜パソコンで調べてくれた。アパートの直ぐ近くのバス停からオペラ座を通るバスがある。オペラ座の近くからドゴール空港行きのシャトルバスが出ていた。

 私と一緒にアパートを出て3分ほど歩き、バスが来るのを待つて、運転手に行き先を確認し、私がオペラ座で降りるのを頼んでくれた。私は運転手席の近くの椅子に腰を下ろした。彼には心からお礼を述べ、日本での素晴らしい旅を期待して、別れを告げた。

 バスは街の中を通り、オペラ座まで40分程で到着した。運転手に声を掛けてお礼の挨拶をしバスを降りた。
 あの特徴の有る丸屋根のオペラ座の建物が直ぐ近くに見えた。だがシャトルバスの乗り場はどこか分からない。歩いてきた新聞片手の男性をつかまえて、「エアポート・バス・ストップ」と単語を並べると、なにやらフランス語でしゃべりながら、直ぐ前にあるビルの向こう側へ行け、というように手をまわした。

 近くに開業間もないユニクロ店があったのには驚いた。ユニクロの広告が描かれているバスも走っていたのを思い出した。

 旅行カバンを押しながら50mほど回ると、バスが数台停まっていた。近づいてバスの運転手に声を掛けると、チケットを見せてくれと言っているみたいなので、ポシェットから取り出して見せると、バスの中へ入れという仕草をした。

 やれやれこれで安心だ。15分ほど待ってから、高速バスは発車した。1時間以上走ると、だんだん街から離れ、ついに空港へ到着した。2ヵ月前に日本から飛んできた時には、全く気付かなかったが、ドゴール空港の大きさに改めて驚かされた。

最後の夕食

 最後の夜だというので、3人で近くにある日本レストランへ出かけた。2人は度々利用するのだという。そこは若い韓国人夫婦が経営する食堂だった。
 彼女は鉄火巻きを注文し、彼はボリュームのある丼物を頼んだ。私は定食を試しに食べることにした。どれも約10ユーロだった。

 注文してしばらく雑談していると、なんとエスペラント会事務所で出会った男性が入ってきた。彼はご飯と生卵が好きだという。ほかに味噌汁を頼んだ。

 メニューの中に冷奴があったので「食べたことがあるのか」と聞いたら「ない」という。私が注文し食べ方を教えた。一丁を4つに分けて、付いてきた摺り生姜を少しずつわけ、醤油を少しずつ掛けて、食べるようにすすめた。

 生ものに少し不安そうだったが、口に入れると「ボングスタ(美味しい)」と3人とも言った。「これはこれからメニューに入るな」と言うのが彼らの言葉だった。

 彼女の鉄火巻きには、小皿に醤油を少し注ぎ、その中にワサビを少し混ぜて溶かせ、鉄火巻きの切り口を少し浸して食べるようにすすめた。このようにして食べるのは初めてだと彼女は言い、とても美味しいと喜んでくれた。

 知人の男性に運ばれてきたご飯に、彼は箸(はし)を突き立てたのには驚いた。
 日本ではその様な作法はしないことを話し、「死んだ人の仏前に立てることはあるようだ」といったら彼は驚いていた。
 そういえば韓国では、そんなことをしていたような気もしたが、定かではない。

 寿司と刺身のメニューを貰って、記念に持って帰った。
 両替したユーロが私の財布にかなり残っていたので「この夕食は私に支払わせてほしい」と言ったら、3人がなかなか承諾しそうになかったので、私がユーロを持ったまま帰国しても、日本円に両替しなくてはならない。お世話になった少しばかりのお礼の印なので、私に支払わせてほしいと強行に押し切った。